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大阪・梅田は元々「埋田」だった!地名の由来や梅田の歴史を徹底解説
大阪の人にとって「梅田」は大阪の代表的な繁華街として1番に名の挙がる地名ではないでしょうか?しかしながら「梅田という地名の由来は知らない」という方も多いかもしれません。そこで本記事では梅田の地名の由来や梅田の過去について深堀りしてみました。今回の記事を読めば、大阪出身以外の人も梅田について詳しくなれますよ!
目次
低湿地帯を埋め立てたことから「埋田(うめだ)」と呼ばれていた
大阪市北区にある梅田はかつて低湿地帯で6000年程かけて現在の形が形成されたと言われています。低湿地帯とは河口付近に三角州が形成され、その土地を30㎝~50㎝掘ると水が湧いてくる土地を指します。
(国土地理院明治期の低湿地データより抜粋)
上記図の黄色部分は湿地帯を示しています。見てみると、大阪市北区全域が湿地帯であったことがわかります。
大阪市北区全域が湿地帯になった理由は、梅田粘土層と呼ばれる粘土層の上に、大阪湾から流れ込んだ砂が徐々に蓄積したことが原因だったそうです。
豊臣秀吉がいた頃、低湿地になっていた大阪市北区は幾度となく氾濫を起こすため、秀吉の命令により低湿地を埋め立てることが決定し田畑に変わりました。
大規模な埋め立てで田畑に変わった大阪市北区はのちに「埋田(うめだ)」と呼ばれるようになったそうです。
2019年10月11日には、JR大阪駅構内で初代大阪駅建設前の写真が展示され梅田は埋田であったことが証明されました。
「埋田」では縁起が悪いことから改名に
先ほど、「埋田」は豊臣秀吉が生きていた江戸時代に名付けられたと紹介しました。江戸時代の人たちはさすがに埋田という地名はイメージや印象が悪いと思い、地名を改名したいと感じていたそうです。
そこで当時埋田(大阪市北区)にあった「露天神社(つゆのてんじんじゃ)」や「綱敷天神社(つなしきてんじんじゃ)」にゆかりがある「梅」という字をあてて、江戸時代の人たちは「梅田」へと改名しました。
露天神社は通称「お初天神」という呼び名で古くから大阪人に親しまれてきた由緒ある神社です。JR大阪駅からも徒歩圏内なので、梅田に旅行にきた際は、一度訪れてみてはいかがでしょうか。
出典元:露天神社ホームページ
梅田に改名された時期について公表されてはいませんが、近松門左衛門の人形浄瑠璃「心中天綱島」に梅田橋の名が記載されていることから17世紀の中盤~後半には梅田になっていたと推測されています。
現在の梅田を知っている私たちからすると、田んぼや墓地が広がっていた梅田を想像できませんね。
都市開発の進む現在の「梅田」
現在、梅田は急速に都市開発が進んでおり、高層ビルや大型複合施設が建て並んでいます。梅田の都市開発は留まることを知らず、梅田3丁目計画(2022年2月完成)や梅田ツインタワーズ・サウス(2022年春)など計画されています。
最近ではJR 北側再開発地区「うめきた」に大型複合施設「グランフロント大阪」(2013年)が開業され話題を呼びました。
うめきた(梅田駅北地区)とは特別都市再生緊急整備地域に指定されているJR大阪駅北側にある地域を指します。うめきた指定当初は「埋田」の名残を感じさせる墓石やほこらが残っていましたが、2010年に北向地蔵尊に移され保管されました。
2013年以降、梅田の都市開発が進み「埋田」の名残は消えつつあったのですが、2020年8月あるニュースが発表され、話題になりました。
「埋田」の名残?うめきた開発中に人骨を発見
2020年8月13日、うめきた第二期工事中に「人骨1500本発見」のニュースが発表、大阪市内でこれほど多くの人骨が発見されるのは初めてで、全国的にもかなり珍しく注目されました。
実は、2016年~2017年のうめきた調査で、すでに200体の人骨が見つかっていましたが、大阪市協会によると、今回の1500本の人骨発見は例を見ない規模だったそうです。
発見された人骨は、子供や20~30代の若い骨や疫病で変形した骨をまとめて埋葬した可能性があり、江戸時代~明治時代の人が埋めたと言われています。
その他には、700年(文武天皇)時に作製された蔵骨器やかんざし、くし、土人形、江戸時代の金貨などが出土され、歴史好きの間では大きな話題となりました。
なぜ多くの人骨が出てきた?
今回人骨が発見された場所は「うめきた」の一角、大阪七墓の1つでした。
大阪七墓は江戸時代~明治時代にかけて作られたお墓で、今回人骨が見つかった場所は「梅田墓」と呼ばれています。梅田墓は曽根崎村と呼ばれる田んぼが広がる地域にあり、村の真ん中に梅田墓が作られました。
なぜ今になって多くの人骨が出るのかというと、昔の人は埋葬=墓に埋めるという習慣があり、現在のうめきた周辺に数多くの死体が埋められたからです。
その結果、うめきた周辺は昔の名残で多くの人骨が埋まっており、工事を進めているときに多くの人骨が出土されたそうです。これからも、うめきた周辺や梅田墓周辺の工事が進むことで人骨が発見されるでしょう。
まとめ
もともと低湿地帯だった大阪北区を豊臣秀吉の命令によって埋め立てたのが、現在の梅田地域です。「埋め立てられてできた土地」ということから「埋田(うめだ)」と呼ばれるようになり、その後正式には「梅田」という地名になりました。
地名ひとつとっても、土地の変化、歴史を感じられるおもしろさがありますね。「梅田」の由来を知ってから梅田周辺を散策すると、新しい発見があるかもしれません。
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